絶対的なものと、客観的なもの。
ここ数日、個展の用意であっちにこっちにばたばたです。
気がつくともう直ぐ九月。
ニールセダカの曲がリフレインします。
さて、表題の話なんですが、長く趣味事をやっていると
当然の事ながら趣味歴と同じ分だけ個人の年齢も加算されていく。
その趣味をやり始めた頃は、憧れや妄想に取り憑かれて
それはまるで熱病のやうな様相でのめり込む。
やがて、一旦熱が冷めた時に自問自答しながら次の進み具合を
確認する。だがおかしなもので大抵の人は新しいものに飛びつかず
古いものに回帰するのだ。
はて??なぜだらう??
きっとそこには、なにかしらの安心感を求めているのではないか?
まだ見ぬ、評価より万人が検証した結果を。
自分の進んだ道が正しかったのか否か?
自分の買ったものがどうだったのか?みたいな。
森羅万象において誰においても絶対にあるものは「死」のみである。
それ以外の事柄について「絶対」はあり得ない。
とすると、客観的に見てみると気が楽なのではないか?
カメラの世界もそう。
個人的な意見ではあるが、レンズが絶対的、ボディが客観的かなとも思う。
写真の面白さ、綺麗さ、表情、表現全てにおいてレンズの仕業である。
ボディは、そのレンズさえ付けば良いのである。ただの箱である。
それが判っているだけに「レンズ沼」に落ちるのもこれもまた事実である。
人の欲とは底なし故に恐ろしい。
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